平塚英子
And E代表・セラピスト・講師

 

一般社団法人こども家族早期発達支援学会認定 早期発達支援士
一般社団法人マスターセラピストトレーニング協会認定バッチフラワーインストラクター

一般社団法人マスターセラピストトレーニング協会認定エグゼクティブインストラクター

 

私が、『母さんと子どもの心のケアの専門家』になるまでの、長い長いプロフィール。
お読みいただけたら嬉しいです。

◆生い立ち
1969年、東京都五日市町(現あきる野市)で、小学校教員の両親の元に長女として誕生。
内弁慶で家では喜怒哀楽が豊か。

しかし、周りの大人たちに「菅原先生のところのお嬢さんね。」と声をかけられることが多く、その言葉に縛られて、外ではいい子でいなくちゃいけないという思いが根っこにあり…。

でも、そんなにいい子ではないので、どう自分を表現して良いかわからない子ども時代。
また身体も弱く、アトピー性皮膚炎もひどく、それはとても大きなコンプレックに。

本とテレビ、空想することが大好き。
「窓際のトットちゃん」「赤毛のアン」など豊かな個性を持った主人公に強く惹かれる。
テレビは日曜日の夜に放映されていた世界名作劇場が大好き。
高学年になると、ザ・ベストテン、トップテン、夜のヒットスタジオに夢中。

小学校から始めたバレエは高校生まで続き、本当に大好きなもの、唯一長続きしたお稽古。
自己表現の方法がわからなかった私にとって、踊りであらゆることを表現することができるバレエは心の拠り所になっていたのかもしれません。
中学生になるとファッションや音楽に興味を持ち、世界が広がっていく。
ファッションは雑誌「オリーブ」を教科書にオリーブ少女を目指し、
音楽は、つまらない大人になりたくない、カッコいい大人になるんだ!と発信する日本のロックアーティストやバンドに夢中。
バイト代は洋服とライブに費やす高校時代。
この頃に出会った人、モノの影響は大きく、私の土台を築いているのだと思う。

 

◆私と仕事
1.教員時代
短大に進み、取れる資格は取った方がいいからという理由で教職免許を取得。
しかし、そこで経験した教育実習で子どもの発する輝きに感動し、本気で教員を目指す。
が、採用試験に落ちる。
それでも運よく教授の推薦で非常勤講師として勤めることができ、中学校と小学校で4年間の教員生活を送る。
クラス担任、教科担当として多くの子どもに関わる。
それも素晴らしいが、特性の強い子どもと、もっとじっくり関わることがしたいと思うようになる。
しかし結婚を理由に退職。
どこか中途半端な私。やり遂げられなかったという思いをこの後長く引きずる。

2.保健室補助員時代
長男が幼稚園に入園した頃、市内の小学校の保健室補助員の募集が目に留まる。
子どもたちの心と身体をサポートする保健室の先生のお仕事はとても興味深いものでしたので、早速応募。
教員を辞めてから数年。
あの時からずっと「やり遂げられなかったダメだった私」という思いも応募のきっかけの一つだった。
健康診断のお手伝いと書類整理が主だったが、先生の傍らで保健室を訪れる子どもたちの様子を見たり、時には声をかけて対応もするように。
保健室を訪れる子どもたちの理由は様々で、そんな子どもたち一人一人に寄り添うことの大切さをあらためて感じる時間となった。
先生にも大変信頼していただき、少しだけ自己肯定感がアップした貴重な経験となった。

しかし、長男の小学校での登校渋りが始まり(◆子育てと私に詳しく記述しています)
予定外に付き添わなくてはならない状況が生じることから、遅刻や欠勤をすることがありこれ以上ご迷惑はかけられないと退職。
最後はやっぱり「中途半端感」が心の中に残ってしまった。

3.NPO時代
長男は中学2年生になる頃にはずいぶんと落ち着き、学校生活も安定した。
こうして長男が順調に学校生活を送れるようになると、私の中に「頑張ってます!」と言えるものがなくなってしまったように感じた。
長男にガッツリ向き合う子育ては、今までの人生において初めて「私、頑張ってます。」と言えるものであったのだと思った。
更に3.11も重なり、復興支援で頑張っている人たちの姿を見る度に、私は何も頑張っていないとますます自分の無力さを感じる。

そんな時に出会った1冊の本「子どもたちの放課後を救え!」。
子どもたちの放課後の居場所を作るとともに、地域の方々、地域を超えた一流のプロまで様々な大人が「市民先生」として子どもたちに多様な体験を届け、日本の放課後を安全で豊かなものにしていくことをミッションとしたNPOの本。
そこには、学校生活では存在感が薄く、褒められる経験も少ない一人の少年が、日本料理の先生に出会い、料理に使う素材に関して興味を持ち、誰よりも詳しくなったことから「素材王」と素晴らしい名をもらい、生き生きと輝き始めた様子が書かれていた。
子育てを通して、どんな子でも、幼い頃から『多様なひと、もの、こと』に出会うこと、関わりあうことが大切であると感じていた私は、このエピソードに共感。
「いろんな人がいること、いろんな世界があること、誰もがキラリと輝くものを持っていることをこの活動を通して1人でも多くの子どもたちに、関わる大人たちに伝えてくことがしたいのです!」と活動に飛び込んだ。

小学校でのプログラムコーディネート、重度障害児支援プログラムコーディネート、保護者との面談、研修の企画、インターン生の担当、団体説明会の実施などを担当しながら、本部スタッフとして総務、経理を担当。
様々な方面から注目を浴びるようになり、成長期真っ只中のNPOで働ける喜びの中、要領の悪い私は終電まで働くような日々が続き、家庭と仕事のバランスが次第に取れなくなる。
家族の負担も大きくなってしまっていることに罪悪感が募り、溜息ばかりつくような日々となっていった。
ダメな自分…。
また、そんな思いが膨らんでいく。
何を大切にしなくてはいけないかを見失ったまま、仕事でも、家庭でも、役に立てない自分が心底嫌になる。
そして2014年11月、ひどい胃痛、頭痛と背中のこわばり、痛みで動けなくなる。
診断は自律神経失調症。安定剤を処方され、とにかく休養するように言われる。

上司や同僚たちは、ゆっくり休んでと気遣ってくれた。
でも、置いて行かれるような気がしていた。
焦る気持ち、動かない身体。眠ることにも罪悪感。

それでも時間の経過と周囲のあたたかさに救われ、次第に回復。
仕事復帰の話もできるように。
今まで通りはもう無理だということで、重度障害児プログラムだけを担当し、非常勤職員として復帰する。

しかし、今度は子どもたちの体調が悪くなってしまう。
高校入学で、環境が新しくなった娘は、環境の変化に心身が追い付いていけなかったのでしょう。体調不良の日々。電車通学が困難になり車で片道1時間の送迎が必要に。起立性調節障害と診断されました。
息子は大学受験のストレスで心身ともに不安定に。
今は子どもたちのケアに専念した方がいいという判断をし、また休職することになる。

4.休職中
働き方を考える時間となる。

家庭とのバランスは?
遠くまで働きに出ることは違うかな。
子どもが成長したと言っても、やっぱり特性はあるわけで、必要な時に必要なサポートができる体制は必要。

自宅、もしくは自宅近くでできる仕事、働き方に変えなくてはいけない。どんな仕事ができるだろうと模索し始める。

◆私と子育て
97年に長男、99年に長女を出産。
どちらも妊娠期には切迫流産、切迫早産を経験。しかし予定日を過ぎてもなかなか産まれず、最後は陣痛促進剤を服薬しての出産。

1.長男
長男には、初めての子どもということもあり非常に神経質になる。
母乳を上手に与えることができない自分をダメな母親だと自信をなくす。

幼稚園に入園。
入園当初は順調だったが、ある日突然登園渋りが始まる。
1か月続いた登園渋り。自分で誕生日がきたら大丈夫になるからと言った通り、不思議と、誕生日を迎えるころには登園できるようになる。
その後、卒園まではとってもいい子に園生活を送る。
が、幼稚園外でお友達と遊ぶ時には、上手くコミュニケーションがとれず、トラブルになったり、おかしな行動をとることが多かった。
なんで?幼稚園ではいい子なのに…。

小学校入学。1学期は順調に登校。
登校に関しては何も心配していなかったが、夏休み明け、突然の登校渋り。
ランドセルを背負い、玄関には立つが、そこから動けず泣いて嫌がる。
迎えに来てくれたお友達に「ごめんね」と謝り、先に行ってもらう。
その後、なだめながら、手をつなぎ学校に一緒に向かう。学校前の信号で固まり、つないだ手は冷たくなり、また「行きたくない」と泣き出す。
いったい息子に何が起きたのか…、私の育て方の問題か…。
「大丈夫だよ。」と声をかけながら、職員室の担任の先生の元へ。
こんな登校スタイルがしばらく続いた。
1年生の後半になりやっと落ち着いた様子。
良かった。と安心したのもつかの間。
2年生から卒業まで、ほとんど共に登校という日々。
3年生の時に診断を受け、発達特性があることがわかる。
ガラスのハートを持った臨機応変が苦手な超完璧主義。
うまくいかないことがあると、ものすごいストレスを抱えてしまう。
人の視線に敏感すぎる。それもストレス。
ストレスがかかるとフリーズ。「困ってます」が発信できないし、「ま、いいか。」と流せない。
困った時にどうするか、「ま、いいか。」「しょうがない。」と思えるようにするにはどうすればいいかなど、生きる力を身に着けることが必要だと感じる。
3年生の時に開級した通級指導学級に通うことに。ここが息子と私の救いの場となる。
通級の先生の「お母さんのせいじゃないですから。」の一言に私が悪いんだという思いでいっぱいで重くて苦しかった心が救いあげられた。

こんなふうにありとあらゆる経験をした怒涛の小学校生活。1年間の登校日が200日とすると、付き添い日数は、おおよそ1100日。
卒業式は私の卒業式でもあった。

中学校は、少人数の固定級のある学校を本人の意思で選び、入学。
小学校で積み重ねた経験が活かされ、気持ちの切り替えや困っているときの相談ができるようになり、私の関わりも距離をおけるようになった。
私自身も、息子への対応をこんな風にしてもらえると助かります。という発信ができるようになる。

高校は、通常級のスタイルに戻りたいという息子。中学校の時と同じく、何校か見学をして、少人数制を導入している私立高を本人の意思で受験し合格。

しかし、大学受験の時は相当なストレスを抱え、体調不良を訴える。
内科を受診したが問題がないため、精神科の受診を勧められる。
今すぐどうにかしたいのに、予約はいっぱいで、受診できるのは2か月後…。
ストレスが爆発することもあり、親子共に疲れ果てる。
こんな時、何か家庭でできる本格的なケア方法があれば良いのに…。ただ受診日を待つことしかできない時間は果てしなく長い時間に思えた。
2か月後の受診でようやく落ち着き、無事に受験も終わる。

2.長女
2歳ちがいで産まれた娘は何事にも真面目で全力投球するタイプ。

息子の登校渋りが始まった頃、娘は幼稚園生。
朝、娘の世話を後回しにして、同居していた私の母に預け、息子を登校させることを優先していたため、置いて行かれるという思いが強かったのか、玄関先で「ママ行かないでー!!」と泣き叫ぶ。
そんな娘に対しても、ごめんねという気持ちでいっぱいになる。
娘には発達特性がないものの、息子の姿を見ているので、同じように関わって欲しいという欲求があるのだろう。
通級指導学級の先生には娘のことも相談にのっていただき、それからは娘のことを優先して対応するように心がけた。
それでも、息子が不安定になると同調してしまうところがあるように思う。
それは大きくなってからも。
娘が高校に入学し、生活環境がガラリと変化した頃に息子は高3で受験期の始まり。
息子が不安定になるにつれ、娘の体調が悪くなっていった。
娘にそっと寄り添い不安な気持ちを受け止める時間がとても大切なものだとあらためて思った。
1年生の後半にはすっかり体調も良くなり、充実した高校生活を送り、オーストラリアに留学するまでになる。

◆早期発達支援士
NPOで非常勤職員となった時に、次の見通しとして、拠点校を巡回しながら、「困り感」のある子、「育てにくさ」を抱えたご家族、関わるスタッフのサポートができるようになれたらいいねという話があったため、そういう人たちに安心していろいろな想いを発信してもらえるような資格が必要と考える。
一般社団法人こども家族早期発達支援学会が掲げる、早期発達支援、特別支援教育に関わる多くの人々や機関が結びつき、保育・療育・教育の輪の中で子どもと家族が支援を受けられる社会を目指すという理念に共感し、早期発達支援士の資格を取得。
人をつなぐことのできる存在になれるよう、どんな子も、のびやかに健やかに育つことができる社会をつくっていけるようになりたいと思う。
自分のすべきことが少しずつ見え始めてきた。

◆お母さんセラピスト
自分自身の働き方を見つめ直す時期と、子どもの体調不良の時期が重なった頃、アズ直子さんが発信していたお母さんセラピストプロジェクトに出会う。
今すぐ何とかしたいという時に病院の予約が1か月も2か月も先になってしまう状況がある現状で、子どもの一番身近にいるお母さんがセラピストになれば、どれだけ子どもは救われるか。
子どもが救われるということは、その家族も救われることになる。
私に、そして子どもに必要なものはこれだ!と深く共感。
私自身が子どもたちのセラピストになろう!

◆バッチフラワーとの出会い
お母さんセラピストプロジェクトのFacebookページで、発達障害×バッチフラワーの体験講座があることを知り受講。
これは、素晴らしいものに出会えたかも。
それまでぼんやりと「困り感」や「育てにくさ」を救っていける人になりたい。そんな場を作りたいと思っていたが、先に取得した早期発達支援士の知識と合わせることで、より確かなサポートができるようになるはずと考え、バッチフラワーでもプラクティショナーの資格を取得することを決める。(その後、インストラクターの資格まで取得するまでに発展)

資格取得のための講座で勉強を進めていく中で、今までの自分自身を振り返る場面が多くあった。
そこで、私がずっと抱えていた、「私、頑張ってない。」とか「私、全然ダメだ。」という気持ちの出どころを発見することができた。
そして実際にバッチフラワーレメディを飲み、じんわりと癒されることを実感する。
5か月ほどたった頃、「あれ?私、大丈夫だ!」と、「私は、私で良いんだ」と変化できたことを体感した。

そんな風に変化していく私を見て、娘が「母さん、イイ感じだね!母さんと話してると楽しい!」と言うように。
難しい年ごろの娘からの、そんな言葉は、とっても嬉しいものでした。
子どもたちのサポートも、バッチフラワーレメディがあるからきっと大丈夫!と、大きな支えになりました。
子どもたちも、様々な変化を感じたようで、今ではレメディちょうだい!ボトル作って!と言うほどになりました。

◆そして、今、お母さんと子どもの心のケアの専門家として。
大好きで大切な我が子のはずなのに、イライラが収まらない。
私の子育て、こんなはずじゃないのに。
なんでうまくいかないんだろう。
うちの子、なんでこんなに育てにくいの。
私の育て方がいけないのだろうか・・・。
そんな想いが頭の中と心の中をグルグルと駆け巡る日々だった、あの頃の私。

あの頃の私と同じように、悩み、苦しんでいるお母さんに伝えたい。
私の子育て、なかなか良いじゃない!そうんな風に思えるようになった今、伝えたい。
「あなたも、きっと大丈夫!」と。

まずは、お母さんの悩み、苦しむ感情をケアしていきましょう。
お母さんが幸せであることが、やがて必ず子どもの幸せにつながるのです。
お母さんが、ご自身の感情ケアをしていくことが、子どもの感情ケアにもつながるのです。

バッチフラワーのセラピストとしての目線、早期発達支援士の療育の目線、教員としての目線、そして「困り感」満載の子どもを育てた、何より皆さんと同じお母さんの目線。
この4つの目線が、私の強みです。
この強みを活かしお母さんたちの力になることが、私の使命だと感じています。

不登校、登校渋り、発達障害、HSP、カサンドラ症候群。
暗くて辛いイメージしかないこうした分野に、幸せになるための最強ツールの「笑顔」が溢れるお母さんたちをたくさん増やし、もっと明るい場所に運んでいきたいのです。

And EのEは、私の名前の頭文字。
お一人、お一人に寄り添う、あなたと私という意味があります。
講座、SNSで多くの人たちに向けた情報発信を行いながら、個別カウンセリングも実施し、どんなお母さんも、どんな子も、のびやかに健やかに生きていける社会をつくっていくことを目指しています。

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